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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の九十六
【 ドライブスルーの葬儀式場 】

 私たちは、遥か昔より、死に対して特別な感情を抱いてきました。

一つは

死を忌み嫌うという感情です。命あるものには必ず死がおとずれます。

それはどうすることも出来ない、避けようのない事実です。それ故に人は死を恐れたのです。

『シ』という言葉の響きさえ嫌い『四』『4』という数字さえ使うのをためらう(日本では)ほどに。

しかし、それほど忌み嫌う死に、もうひとつの感情も抱いて来たのです。

死を悔み尊ぶという感情です。

人は生きている間に、さまざまな人と出会い、さまざまな行(おこな)いをし、人を育て、人に少なからずなんらかの影響を与え死んで行きます。

亡くなったその人と、関わりがあればあるほど、関係が深ければ深いほど、その死に対して悔やみと感謝の心が生まれます。

『畏怖』という言葉があります。恐れる心と敬意をはらう心とが同時に働く感情の事を言い表す言葉です。死に対して人(日本人にかかわらず)はこの『畏怖』もしくは『畏敬』の念(思い)をもって接してきたのです。

 古来より、葬儀という式の形、様式、仕様はどうあれ、人は亡くなった人を畏怖の念を持って葬ってきました。

何千年も前、まだ人類が人と呼ばれない時代の地層から、化石化した人の骨の胸元に一輪の花の化石があったのがその良い例です。

考えてみれば、私たちは、自分より先に亡くなった人たちの上に立って生きています。産まれ生き死に、そしてまた産まれ生きて死すという時の積み重ねの上に生きています。

厳しい言い方をすれば、私たちは多くの屍の上に立っているのです。

それは、誰がなんと言おうと事実です。

 多種多様な考え方、多種多様な社会状況が一同に介している現代社会・日本。亡くなった人を弔う葬儀も変化してきています。

葬儀はイベントだと言う葬儀社もいます。

葬式はしなくて良いと言う宗教学者もいます。

家族葬・直葬で良いと言う人もいます。

でもそれらはすべて葬儀の出し方の話です。方法・形態の話です。

肝心要(かんじんかなめ)なのは、自分と繋がりのある人の死に、花一輪手向け畏怖の念でお参りするということです。

当然そこには、亡くなった人にたいする礼節・礼儀がいります。

 ドライブスルーの葬儀式場が開設されるそうです。車に乗ったままでお焼香の出来るシステムだそうです。これで、足の不自由なお年寄りや車イスの人もお参りに来やすくなるとその開発者は話します。

また、これで、忙しくて通夜葬儀に来れない人も気楽にお参りに来れるようになりますとも話します。

便利で楽になりますと話します。

 そうかもしれません。でも、そのドライブスルーのお参りには、礼儀も礼節も感じられません。

なぜなら、どう考えてみても、車を運転したまま、車に乗ったままでのお参りは『片手間』なのですから。ながらお参り、ついでお参りになってしまっています。

そこに畏怖の念はありません。

一言で言うなら『不謹慎』なのです。

足が不自由でも、車イスでも、忙しくて時間がない人でも、それぞれに…それこそさまざまな方法・手段でお悔やみの気持ちを表すことや伝えることができます。必ずしもその式場に出向かなくても。それこそ便利な世の中なのですから。

わざわざ、不謹慎なドライブスルーというシステムを使ってお参りする必要などないのです。

 最後に一言

このドライブスルーのシステムを考案した会社の社長が自ら話しています…

『不謹慎』だと思われるかもしれませんが…しかし…と。

やはり不謹慎なのです。

問題は、不謹慎だと感じながら、それでも理由をつけて便利と楽をとってしまうこの社会風潮なのです。

 便利なことは、確かに良いことです。

車から降りなくて良いは楽なことです。特に足の不自由な人にとっては。

技術的にいろいろなシステムは可能です。

でも、便利だから、楽だから、技術的に可能だから。と、何でもかんでもアリではないはずです。

釋 完修
合掌
[2017/06]

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