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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


其の九十七
【 お墓参りの真の意味 】

17歳で家出した。

何が不満な理由(わけ)でもなかった。

家庭も満足だった。

両親も優しかった。

ただ何かが私を駆り立てた。

若さ故の理由なき怒りなのかもしれない。

働いた。

独学で勉強もした。

20歳の時にある人と出会い芸人になった。

下積みあったものの23歳で世の中に認められる芸人になれた。

その年、親友が言った。『あんた成人式してないやろう。アタシの着た着物やけど…それで写真だけでも写しなよ』と。

それもそうかと思い写真を撮った。

記念に、その親友は帯を持って行けと私に告げた。

そんな高価な物は貰えないと断った。

けれど、良いから絶対持って行けと何度も何度も繰り返し言われた。

成人式の記念に帯を貰った。

30歳の時に母親の死を知った。

17歳で家出をしてから一度も両親には連絡をして居なかった。

自宅に出向いた。

布団の中で眠るように横たわる母を見て涙が止まらなかった。

母のお参りに来てくれた親友の言葉に、私は崩れ去り号泣するしかなかった。

ただただ親と言うものの凄さ深さに号泣するしかなかった。

成人式の記念写真。

そこに写っている着物は母が自分の成人式に着た着物だった。

そして持って行けと言われた帯は、母が私のために新調したものだった。

17歳から音信不通になっている娘のために、せめてもと思い私の親友に託したのだそうだ。

親友曰く、大人の人に…あんなに深く長く、そして涙を流しながら、物を頼まれたのは後にも先にもあれが初めてだと。

『私も今は人の親になってるからよくわかるのよ』

そう私に告げた親友の最後の言葉が心に突き刺さった!

『親とはそういうものよ』

子や孫、ひ孫のいる人なら、娘さんの親友に着物を託すこのお母さんの気持ちは、手にとようにわかるはずです。なぜなら同じ親だから。子に願いをかける私になっているから。でも考えてみてください。親になっている私たちも子であったのです。いや今でも子なのです。

たとえ自分の親が亡くなっていようとも、子であった事実はなくなりません。たとえ自分が80歳になろうとも、90歳になろうとも親からすれば私は子なのです。私たち親は親になったゆえに、この大切な事実を忘れてしまっているのです。親になり、子に願いをかける側になって忘れているだけなのです。親の私たちも、親からすれば子なのです。

裏切られても、不義理をされても、うとまれても、それでも愛し慈しみ、ただただ『子』の健(おだ)やかな人生を望む。そんな親の願いは、親がいなくなってもなくなりはしいのです。

私には親が2人います。父親と母親です。この小話を読んで下さっている皆さんにも、父親と母親、親が2人いるはずです。この2人の親が、亡くなっていても生きていても、前述した『親の想い』で私を願っていてくれます。でも、考えてみてください。私のこの2人の親にも親がいるのです。

私の父親にも父親と母親の2人が。そして私の母親にも父親と母親の2人の親が。その父親と母親にもまたそれぞれに父親と母親がいます。その父親と母親にもそれぞれに父親と母親が…

多分、絶対、明日の朝までこの原稿を書いていてもこの親のつながりは終わることはないでしょう。ずーっとつながっていくのだから。この過去に永遠に続いていく親のつながり(命のつながり)が一つでも欠けていたなら、今の私は産まれていないのです。

そしてこの過去から永遠に『親の想い』は続いて続いて続いて繋がっているのです。

さらにこの『親の想い』は自分の子にもつながっていきます。そしてその子が結婚して子を産んだなら、またその子に。その子が結婚して子を産んだなら、またその子に…未来に向かって永遠に続いていきます。

実は…

お盆のお墓参りとは…

子として願われて生きている私の、1年間過ごしてきた姿を、この無数に続く『親』に見せに行く事なのです。

「親父、参りに来てやったぞ」とか

「化けて出て来んでね」とか

「家族に災いがないように」とか

そんなふうに、何か亡くなった人を封じ込めに行く。お願いに行く。なぐさめに行く事ではないのです。

1年間、この自分(私)は、父や母(亡くなった先祖すべてに)の前に、堂々と胸をはって会える私であっただろうか?

正直に生きたであろうか?

嘘や騙しにまみれてはいなかっただろうか!

優しさを持って生活しただろうか?

その事を親(先祖)に問いに行く場なのです!

そして、お参りを済ませたあとに…

また1年間、自分なりに一生懸命生きて、来年も、顔を上げ堂々とあなた(親)に会える私で来ますと誓い帰宅するのが真のお墓参りの姿なのです。

私が子供のころ…

今から4・50年前…

お盆の8月15日…

真夏の暑いその日に…

お墓参りに来る大人たちは、シャやロの紋付き羽織袴でお参りしていたものです。

それは、正装した姿で、1年間生きてきた自分の姿を、親に見てもらう、報告しに行くそのことに他なりません!

自分を見つめる、時間や次元を越えた『大きな目』それを『親の愛』と呼べるかもしれません。

時に厳しく叱り!

時に優しくなぐさめ!

その時々に私を導いてくれる『亡くなった親の願い』

それを感じるならば…

この混沌とした何でもアリのような時代。

嘘や欺瞞(ぎまん)、誤魔化しが堂々とまかり通る時代。それに終止符が打てます。大袈裟な話ではありません。

私たちに今!

もっとも必要な意識は、次に上げる2つの言葉に集約出来ます。

昔から言われてきた、今はあまり言われない言葉です。

でも、深い深い意味の込められている言葉です。

私自身、もう一度、噛みしめている言葉です。

『こんな事をしたら、死んだ親父に会わす顔がない』

『こんな事をしたら死んだお袋(母親)に叱られる』

釋 完修
合掌
[2017/08]

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