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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


問001
【 清めの塩 】

 『死』を『ケガレ』として受け止める物の考え方に由来するもので、昔から殺菌作用があることが知られていた『塩』を用いて、『ケガレ』を払うためにおこなわれていたものである。

 死をケガレとする意識は、神道以前の日本的感覚に根源がある。「古事記」で、イザナギが黄泉の国で腐敗した妻の姿を見て逃げ帰った後、身体を海水でみそいだことがその始源とされている。

 清めの塩を用いるようになったのは、江戸時代初期半ばより一般に広まった慣習で、それまでは、酒、食事、つまり現代でいうところの会食をすることによってケガレを払っていたのである。

 死をケガレとする考え方は、神道に強く現れいる。ゆえに神道における葬送の義はお祓いをして、ケガレを祓い亡くなった人をおくるのである。

 仏教において、死はケガレではない。特に浄土真宗において死はケガレどころか尊ぶものである。

死を、特別な忌み嫌い、畏れおののくものとはとらえず、生まれ死すというさけようのない道理とみるのである。

ゆえに、ケガレではない死を清める必要はなく、当然清めの塩を使うという行為は必要ない。

 しかし、一般に広がり、村という社会に根付いた慣習は、その行為が良い悪いではなくなかなか無くならないのが現実である。

金沢では、近年やっと、浄土真宗の葬式において、使用しなくなってきている。

釋 完修
合掌
[2017/06]

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