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阿弥陀

お坊さんの小話(法話)
浄土真宗


問007
【 お供え物の向き 】

 お祝いやお見舞い、プレゼントなどで、相手にお花を贈るのなら、またお供えをするのなは、確かに相手に向けてあげます。なら、なぜ本堂やお仏壇、葬儀の祭壇、それらのお花やお供え物は私たちの方を向いているのでしょう。

コチラを向いているのには、ちゃんと「その事」に意味があるからなんです。

 仏(ほとけ)に向けてお供えしたお花やお供え物は、お供えしたその瞬間に、私たちの方に返されているです。ともすれば私たちは、供物やお花を供え、さぁどうだ供養をしたぞと胸をはりがちです。しかし、そんなことを、私たちの先達(私たちより先に亡くなった命)が、望んでいるのでょうか?

 例えば自分の両親のお墓参りに来たとします。そこに何十万もするお花を飾り、山のような供物を供えお参りすることを、親は喜ぶでしょうか?

あなたが、その親ならどうですか?

そんなことより、人として道をはずれず、残った家族が力を合わせて、人生という道の真ん中を堂々と胸を張って歩んでいこうとする姿勢、その志しを願っているのではないでしょうか!その願いが私たちに向いている、呼び掛けられている、その意味でお花やお供え物はコチラを向いているのです。

 母の日に、我が子が贈ってくれる一本のカーネーションに涙しているお母さんをよく見かけます。でもそれは、お花がうれしいんじゃないはずです。我が子が人に「ありがとう」と言えて、人を「思いやるこころ」を持っていることに感激し、喜び、涙しているはずです。そういう子に育った、そういう気持ちを持てる子になったことに。

 私たちが、仏前に立つ時、それは生きてきた自分の生き方を「見てもらう」ということなのです。そして仏の私にかけられいる「願い」を「聞く」。

 故に、すべての「荘厳(お花も含めて)」は、私たちの方を、向いていなければならないのです。

釋 完修
合掌
[2017/06]

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